教育

やはり走るのはいい。目の前のものが、そういえばそこにあったかと、そんな感じで見えてくる感じがする。ルームランナーで走っているんですが。

会社のことでいろいろ考えたけれども、結局、自分にはどうすることもできない他人の意思に関することで思い悩んでも仕方ないということだ。

H岡のことを思い出す。以前の会社の後輩だ。

自分は本当にしょぼいサラリーマンだったので、なんとかがんばってやってきた。だから後輩にもそれを求めたし、そうすることで独り立ちできるだろうし、H岡も会社もみんなハッピーだとおもっていた。

しかしいくら手を変え品を変えしても上手にならない。最終的に僕の転職がきっかけで常駐先の仕事を失注してしまい、H岡は仕事を失った。一度だけ転職したあとに食事したことがあって、あのあと他の仕事に移り、まあまあ忙しいけど、がんばっていると言っていた。

他人は期待した通りに動かない。人にものを教えるというのはおれには向いてない。

そう、大学生の頃、小学生に水泳を教えていたんだけど、ある子の親から、先生のおかげでクロールが泳げるようになりましたとえらく感謝されたことがある。それまでどんなに習っても泳げなかったんだそうだ。

ぼくはその子に何もしていない。ただその水泳の授業でみんなに聞こえるよう大きな声を出し、退屈しなくて少し歯応えのあるメニューを用意し、安全に気をつかい、時間の余裕がある時にすこし雑談した程度だ。やらなくてはいけないことをやったにすぎず、特別なことはしていない。生徒ひとりひとりのことなど考えていない。

だがその子の何かが変化した。教育というものがなんなのか全くわからなかった。要点がわからなかった。教職をとらなかったのも今考えると、この経験が大きかった気がする。

H岡の件以降、教育で何かが伝わることは幻想で、何かができるとしたら枠組みを作ることでしかないと思っている。だからぼくは子供に勉強を教えたことはないし、塾の先生にそういう枠組みだとおもっていると相談すると、是非プロに任せて欲しいと言われた。それでうまくいっているようなので、良かったのだと思う。

他人の心や意図をさぐるうちに迷路に入ってしまう。他人のことを考えて行動するのは大切だけれども、何も休みの日にコントロールできない他人のことを悩む必要ないだろ、と思った。