Splatoon3 について

Splatoon2 は少しはやったことがあるが、FPS の初心者である。上手になるために、いろいろなことを言語化していくことが大切だと思っている。紙のノートにつらつらと書いているのが、数年後見返すと面白いんじゃないかと思ったので、見返しやすいブログにも書いてみようかと思う。

  • 突っ込んで行って死ぬのはダメ。相手をキルしなくとも残るだけで味方の着地点になるし、そもそも複数で攻撃ができる。とにかく生き残るようにする。
  • 2 対 1 の構図を作る。基本的に 1 対 1 はやられるリスクが高いので避けたい。
  • 単独で相手の陣地には踏み込まない。踏み込んで行くと、相手が複数いる可能性が高く、やられるリスクが高い。やられるやられないに関わらず、自陣が留守になる可能性が高い。
  • 前線をゆっくりあげる。開始直後で中心を取り合って、味方がいくつかキルされても落ち着け。攻めるより守る方が大変なので挽回は難しくない。
  • マニューバは何回か転がると硬直するのでそこを狙え。実際に使ってわかった。
  • 正面からの 1 対 1 はやめろ。横とか不意をつくのは良い。
  • チャージャーはとにかく移動しろ
  • 1 人で何かしている時間が多いなと感じた時、自チームには隙があると思う。
  • 音楽を聞かないでプレイするとエイムが会う気がする。

ネタバレあり シン・エヴァンゲリオン劇場版感想

ゲンドウの回想シーンに新しさを感じた。そのシーン以前はなんか悪くはないけどいまいちぐっと超えてこないなあ、と思ったが、そこのシーンは居住まいを正した。それ以降映画の流れにひっかかりがなくなった気がする。シンジ君は父親の中に自分の弱さと似たようなものをみて、やることがはっきりした感じだった。庵野も歳を取ったんだなとしみじみ思った(ゴジラの時も庵野監督にしみじみ思った。やればできるじゃんか...って)。

おもえば自分も社会人になるまえ、家族の中である問題が起きて、それに対処できずうろたえる父親を見た。父親はバリバリのサラリーマンで、夜も遅くまで働くなかなかの大企業の重役だったんだが、家族の出来事の前でボロボロに情けなくなっていった。時期的にクズな自分が社会に出ておろおろしながら働き始めたのはそれからだ。映画になぞらえて考えると、その後にいまの嫁さんと出会い結婚して子をなしたというのは、そういう流れから連なったものだという解釈もできなくはない。

さて、人にどうだった?と聞かれたときになんと答えるかを考えてみる。前回のラストから 20 年近く経っているわけでしょう。作っている人々も歳を重ねたという感じがすごくでてた。よかったんじゃないかと思う。ただ映画としてはまあ、なんでもありの世界が加速していたので、普通の映画によくある「これどうすんのさ?こっからどうなるわけ?」みたいなワクワク感が少なく、「この映画に流れる時間がよい」という感じもなかった。まあそういうところにおさまるよなあ、という感じだったんだが、別にくさす必要もなく、時節柄、なんだか卒業式みたいだったな、と思った。

そんなことよりも、自分は甘ったれた息子が2人いるわけで、成長を促すにはゲンドウ先生みたいなそれ違うんじゃないのという困難なことに取り組むもボロボロになり負けるという過程を見せなきゃいけないのかなあ...と思うと、げっそりする。穏やかに生きていきたいのだが...

ごっつい2号機と8号機のプラモが出たら買います(ぜんぜんさよならできてない)。

Siri 読み上げ生活

Siri の Kindle 読み上げさせながら何か作業するのが効率がいいとはよく言われていることのようだ。僕もやってみた。

作業と読書がマルチタスクでできるのはいい感じだと思った。ただそれだけではなく、何事も飽きずに作業が継続することに気がついた。炊事洗濯掃除のようなあまり思考を必要としない作業だけではなく、仕事でプログラムを作ること、読書と相性の悪いような作業もそうみたいだ。

作業中に気が散って集中が途切れることはよくある。だけれども読み上げを聞きながら作業していると、気が散った時に、読み上げ音声にその散った気がからめ取られ、なんとなく読み上げを聞いていると、また気が散って手元の作業に気が戻る。結果として継続して作業できている。いつもなら twitter とかに意識が飛んでいくのに。まるで OS のコンテキストスイッチだ。

音楽を聴きながら作業するのと何が違うのかというと、音楽は散った気をからめとってくれないようだ。音楽を聞くという行為は感覚的なものだからなのかもしれない。音楽を聞くことと論理的な思考は同時にできるのだが、だからこそ論理的思考の無軌道なコンテキストスイッチ、つまり気が散って twitter をするという行為を抑えることができない。気がつくと音楽を聴きながら twitter していることになる。twitter からもとの作業にスイッチするのはなかなか難しい。作業はちっとも進まない。

他にも、読んだほうがいいのだけれど読むのが面倒くさい文章(仕様書とか)を、Siri に読み上げさせると引っ張られるように目が文字を追っていき、いつのまにか一緒になって読んでいってしまう、という効果もあるようだ。普段 twitter みたいな短い文章しか読んでないから長い文章が読めなくなっているのかもしれない。電動アシスト自転車のように Siri にアシストしてもらっている感じな気がする。老いだろうか。

プログラムのコードも Siri に読み上げさせるのもなかなかいい。ピンポイントな確たる目的のないコードリーティングというのは、黙読すると細かい点を見過ごしたり大雑把になりがちである。コードの写経はそれをカバーするような感じではあるが如何せんタイピングが大変である。だが Siri 読み上げだと黙読と写経の間ぐらいの感じになる。読むよりは遅いがタイプするよりは速く、タイプするよりは粗いが読むよりは細かく読める。

この文章も書いたものを Siri に読み上げさせ、語感とか流れを気にして調整してみました。

2027 年の俺へ

長男が大学に進学することが決まった。次男は 4月から高校2年生なので、子供らが社会に出るまでには、あと6年ぐらいかかる。長男は大学院に行きたいようだが、奨学金でももらって勝手にやってくれと思っている。

あと6年である。俺は結婚して子供ができるまでゴミのような人生を送っていたので、彼らが社会へ出てしまうと、気が抜けて病気になってしまうんじゃないか。生きる力を失い、死んでしまうかもしれない。そもそも仕事を続けていられたのも子供や妻のためにという思いで、自分を煽っていたわけで、働くモチベーションも無くなってしまう。妻が欲しいといってた家も買ったし、ストックオプションでそれなりに貯金を増やすこともできたので、俺にしてはもう十分じゃんかと思っている。

仕事自体も面白いわけではない。俺はプログラマなんだが、実はプログラムを書くのは嫌いではないがいうほど好きでもない。比較的得意だからやっているだけだ。ましてやその対象が車や広告といった俺にとってどうでもいい、むしろ世界をよりダメにしていくものである(つくづく adTech とか「これは仕事だ」と強く念じないと正気を保っていられない)。それでも世界に干渉できるならまだマシで、それにすら至らないゴミのようなプロダクトやサービスなのである。だからお給料をいただくためにやっているだけにすぎない。俺の目から見て、こんなものが世間に使ってもらえて、お金を運んできてくるわけないだろというプロダクトやプロジェクトにお金を出す人がいるわけで、ソフトな詐欺だよなと思う。確信犯的にお客さんが支払う金額も少なかったりするわけで、こんなことあと 20 - 30 年も関わっていられるかよ、というのが本音である。

だからとりあえず、とりあえずあと6年、こんなゴミ屑人間のようなおれが世の中にできる多少はマシなこと、すこしでも若い人を育て、社会に送り出す、それだけはやりとげようと思っている。2人子供を世に送り出せば、再生産数は 1.0 である。氷河期世代にしては上出来だろ?と思う。

あと6年ぐらいなら、なんとかプログラムを書いてお金をもらって、子供を育てきることができるんじゃないかと思っている。そんなことを胃の内視鏡検査の待合室で考えた。検査は全身麻酔で行うんだけど、その意識を失う感じが死を連想させて、先の人生に目が向いたからだと思う。

6年後はどうなっているだろうか。相変わらずマスクをつけて暮らしているのだろうか。飲み会は淘汰されてしまったのだろうか。経済は苦しくなっているだろうなと思う。何か持病があるかもしれない。巨大 IT 企業はこれからもがんがん全てを飲み込んでいくであろう。仕事もだいぶ減っていると思う。今の会社からはクビにされていると思う。会社もなくなっているかもしれん。

数年前に面接で聞かれた10年後の自分はどうなっていると思いますか? という答えにくい質問があったことを思い出す。いまならはっきり答えられる。派遣社員としてパイプ椅子に座って Windows でプログラムを書いている気がする。それとも細い人脈の糸を辿ってフリーランスで細々とやっているのかもしれん。

そうかんがえると、プロダクトに奉仕して、世界の問題を解決するための正社員より、そのエモい部分はバッサリ切り落として、それをどう作るかということに焦点を合わせた仕事のほうが、実は性に合っているのかもしれないな。今の会社には申し訳ないが、やはりビジネスには興味がない。それじゃいかんとおもっている... いるんだが、もうつらいんだ、ビジネスモデルとかステークホルダーとか、もういやだ。「なんでエンジニアが作るものをかんがえなきゃいけないんですか?」と言ったエンジニアが昔居たけど、気持ちはわかる。今はよくわかる。

...と 2021 年には思っているんだが、2027 年に読み返したら、どう思うんだろうか。

リモートワーク

どうもリモートワークが「よいこと」とされていることが気になっている。

感染対策だということは理解している。通勤は回避できるし、朝ゆっくりできる。いいことづくめな感じだ。だけどアプリ一つ起動するだけで、自宅でのプライベートなコンテキストから仕事に簡単にスイッチできるというのは、相当侵食されているとも言えるんじゃないかと思う。

その状況に対する防衛反応だと思うんだけれど、以前は自分の中で仕事と趣味の境界は曖昧だったのが、在宅勤務が常態化することで、逆に仕事と趣味の境界が濃くなった気がする。自分の中で仕事は「労働」という色が濃くなった。お金を稼ぐために働いているということを意識して必要以上に仕事のことを考えないようにした。毎年有給休暇はオーバーフローしていたけれど、去年もらった有給休暇は全部使った(会社では有給消化率が例年より悪かったそうで、年末の駆け込み有給消化が目立った。理解できないことの一つだ)

SNS で世界がつながることでより分断が深まったように、リモートワークで家で仕事ができるようになり、人生と労働がぱっくりと別れた気がする。

職場での雑談も飲み会も消え去ってしまい、オンラインで擬似的にそれを実現しているのに何回か参加もしてみたが、僕の結論としては無理筋だと思う。労働にこだわってもこれ以上何もないだろう。

レビュー:安倍vs.プーチン 日ロ交渉はなぜ行き詰まったのか?

結構面白かったんですが、メルカリに出してもちっとも売れないので、レビューを書こうと思います。安くしているんで、買って!

北方領土問題って人によっては結構センシティブな話だと思うので、変なことを書くと怒られそうな気がしますが、素人なのでそこはご容赦を。素人っていうか、全然知りません...

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そもそも興味を持ったのは、ニュースやなにやらでさらっと当時の安倍総理がロシアとのことでどうも、へんなはっきりしないこといっているよなと感じてからです。で昔そういえば佐藤優国家の罠を読んだことを思い出して、そういえばあの北の辺りってどうなってんだとおもったことからです。 国家の罠も覚えていることは検察の激詰めぐらいでこえええとおもったぐらいで。

ざっくりいうと、今プーチン的には、「まずは WWII の平和条約を結んでからで、そのあと島のことを話すのはまあわからんでもない」という態度で、「島は返すっていうのは主権を渡すってわけじゃあないんだよ?」みたいなことを言っている。それから「島渡すとおまえらアメリカの基地つくるかもしれんじゃん?」「いやいやいやそんなことは」「だって沖縄でいいなりじゃん?住民反対してんのに、それってそういうことじゃんか?」

みたいな感じのところを安倍さんは何度も会談して、一度はオバマさんにプーチンに会うんじゃねえよ?って詰められているのに、「いや、会うから」みたいにして会談して、「お、アメリカへこへこじゃない感じじゃん?」みたいなこともあったのに、どうもうまく行ってない。4島はちょっとあれだからやっぱ前みたいに2島でいくか、みたいな感じだったんでしょうか、それなのに、「知らんな」みたいにして、プーチン氏は憲法変えて長いこと権力握れるようにして、しかも島も返さんぞみたいなことも憲法にのせて、石碑もつくって島に置いた。

ああ... もうこれどうしようもないんじゃ...

サンフランシスコ平和条約で千島列島は返しまっせ、となっているけれど、その当時のソ連は条約締結してない。千島列島に択捉とか含まれるかというと、どうもその当時は含まれるという認識っぽかったけれども、今の外務省は北方 4 島は千島列島に含まれてねえから!という立場です。

なんかもうぐっちゃぐちゃで、これは大変ですよ。

僕は会社の業務で OSS のコントリビュートをしたことがあって、コントリビュートっていうのは、プロポーザルを書いて、レビューに参加して、相手を説き伏せて、妥協点を見つけ、話し合い(僕は英会話ができないのでほとんどしない)、コードを書いて、テストも書いて、push して pull request を送って、相手に approved されるまでつめまくり、そんでマージされたら、リリースいつなんだ、俺んとこはいつじゃないと困る、とかそういうことを外国の人相手にやるわけですが、ものすごく疲弊します。そういう部分で関係者に感情移入しました。外国の人ってわからんのよ、本当に...

この本で、あ、おもしろ... と思ったのは、最後の方の「想像力をたくましくしてみよう」みたいなところで、2 島返還で、のこりの2島で経済を仲良くやって行こう案という想定で、今後どうなっていくか... みたいなバッドエンドチックで、うわ... ありそう... とおもったところです。

一つの島に二つの国の人が暮らしている、という想定で治安とか法律とか経済とかどうすんだよっていうののケーススタディとか、まじめにがっつりやるなら相当おもしろいんじゃないだろうか... 大国に挟まれた小国がどうやって国家をやっていくのかっていうのは、東欧諸国にも学べることがありそうだし、なんかちょっと視野が広まった気がします。

大変だな... と思うけれど、個人的にはこういうぐちゃぐちゃしたものが好きなので、そういうのが好きな人にはおすすめです。あとここに書いたことは間違えていることもあると思うんで、それはご容赦ください。参考にしちゃダメですよ。では!

同僚の死

正直気に入らないヤツではありました。しかし自分を支える根っこの部分で踏ん張って対応しないといけないようなタフな人だったので、印象が強い。考えがまとまらないまま以下バラバラと思いを列挙します。

  • 葬式は家族葬で、コロナの時期なのでお通夜もなく、そして同僚とそれを語る場もない。映画は語らないと見たことにならないとは押井守の言葉だが、どうにも語らないと彼が亡くなったことが腑に落ちない気がした。会社の Slack はその話題はなかった。SNS でもメールでもいいんだろうけれど、昨日の 1on1 でボスと話したとき、内容はしょうもないことだったが、彼の死について話した。助かった。
  • 僕の両親は健在だが、いずれ亡くなる。そのとき葬式とかめんどくさいと思っていたんだが、そういう語る場を設けること、関わった人がその人の死をふに落とすお手伝いをすること、それは大切なことなんじゃないかと思った。例えば両親の友人とか僕は一切知らないけれど、葬式にきてくれたたら「どんな人でしたか?」とか聞くことだけでも全然ありだと思った。
  • facebook では彼の友達たちが写真を貼り付けて思い出や悲しみや寂しさを語っている。これはこれで悪くないなと思った。コロナの時代というか、SNS 時代の葬式、というか死者の送り方なんじゃないかと感じた。ただ、デジタルのテキストはやはり軽く思える。
  • あとシリア難民のドキュメンタリーを見ていたんだけど、こういう生きづらさを抉るようなものを見ると、多かれ少なかれ、人生は本当にいろいろあるよなと思う。
  • それからファミリーヒストリーも見てたんだけど、先祖から繋がる血縁関係と物語の強さを感じた。死んでも残るものがあるのだと。というか生きているものが残すのだ。