嫌悪感

ソフトの開発をしていると、誰が使うんだそれみたいな機能があるわけです。この時期にそれに予算を投じるのが正気とは思えないけれど、大きな図体は動き出したら止まるにも時間がかかるので、そういうこともあるかなとおもうわけです。

そういう機能なので関わっている人もそれ相応な人たちで、それに関わる自分もそういう位置にいるんだなとおもうわけですが、それはそれとして、ひどいプロジェクト進行になるのです。クソはいくら磨いてもクソなわけですが、それでも少しはマシなクソになるようにと働くわけです。ひょっとしたらユーザに少しはマシな何かをもたらすかもしれないという地平を遠く見つめながら己を、チームを律するわけです。

その一方で自分の中から抑えようのない汚い言葉が溢れるわけで、仕事するのがたいへんなわけですが、ところでこういう生き方もあるようなのです。

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かつて広告代理店にいたとき、次第に仕事に対する違和感が積もっていったんです。当時は、自分が欲しいと思える商品や共感できるクライアントだけを選んで仕事をしていたわけではありませんでした。特に若手の頃は仕事を断りづらく、たとえ自分が買いたいと思えない商品でも、目の前に与えられた目的をデザインによって果たすことに集中すれば、何かが見えるはずだと思ってやっていました。 視覚・言語化する技術は、次第に身についていくんですが、いくらやっても何も見えてこなかった。それどころか、見えてきたのは自分の中の嫌悪感でした。自分が広告やパッケージで携わった企業や商品を、胸を張って友人や家族にもオススメできないなら、自分は何をデザインしているんだろう? そんな疑問が積もり積もって、受ける仕事の選択にも、仕事そのものにも、自分に責任がすべて伴う環境にするべく独立し、会社を立ち上げました。

嫌なら辞めろっていうのがあるとはおもうんですよね。やめて自分で仕事しろって。そこまで力のない僕は嫌悪感とともに生きていくしかないんだよ、とまでは言わないけれど、やめてどうすんの?なにやるわけ?それって本質的に同じことやっていることにならないの?とはおもうわけです。

最近は、映画の風立ちぬの二郎さんを観てから、はっきりおもうんですが、なんかしら嫌悪感を抱かない仕事っていうのは存在しないと思っていて、彼にとっては戦闘機ですが、嫌悪感にのまれてはいけない。嫌悪感と仕事していくしかないと思っています。それこそが粘りを生むと思ってさえいます。いわゆる社畜の発想なんだとはおもうんですが。なので、

胸を張って友人や家族にもオススメ

このコンセプト自体が怪しくて、すでに広告の一部なんだと思っています。すくなくとも自分の生き方には適用できない。この記事の方と一概に比べることはできないとは思いますが。